2010年06月11日
霊的テレパシー

すろーカフェずくなし/農業・文化・環境コミニュティの一日 サイトより
「イワン・デニーソヴィッチの一日」なんて本が思い出されます^^
シベリアの刑務所に服役中のイワンはもうじき出所という時に、一枚のルパシカと交換に自分の刑期と終身刑を交換してしまいました。
でも、満足の表情で一日を終えたのでした。
こういう「思い切りの良さ」というのが人生を価値あるものにするということを、ソルジェニーツィンは言いたかったのかもしれません。
私も、本を読み終えてサバサバした感じにさせられた記憶があります。
遠い目でしか見ることのできないひとコマですけどね^^
*
この太陽幾何学も思い切りの良い人が撮ったと思われます。
ハッキリとした写りでブレがないですからね。
撮った人の生き方もブレの無いものと見なすことができます。
あくまでも「今のところは・・・」です。
人生色々ですから、相方や仲間との関係で「流される生き方」になる場合もあります。
そうなると、こういう写真が撮れなくなってゆくのです。
面白いことで、そういう人を何人か見てきましたが、一旦キレルとなかなか~元のペースには戻れないようです。
流されるという感じの生き方には創造性というものが欠如しています。
創造性・・・それは~最も人間らしい面だと思います。
これが無かったら、一見ランダムな宇宙の中で、祝福を受けるべき対象が無くなることを意味します。
「祝福と楽園」の喪失です。
魂の経験としてはソレもありでしょうが、タイムロスを生じさせるように思えるのです。
経験を魂に報告するとしたら・・・ぜひ報告したい経験と、あまりしたくない経験とに分かれるでしょう。
報告は普通の言語ではなくテレパシー風に伝えられるようです。
伝えたくない経験であっても、感情的な入れ込みがあれば、その振動で伝わるとされます。
それもテレパシーの一種ですが、喜びに満ちたテレパシーとの違いがあるようです。
感情波動は魂の倉庫へ向います。
創造的な喜びの波動は時空を越えて、「創造」の元へと向います。
ダテに創造の字が使われてるのではないことに不思議を感じますね^。^
テレパシー と 霊的テレパシー という区別がされてます。
プレアデスによると、テレパシーの到達距離は12万Kmで、時空の制約を受けます。
だが、霊的テレパシーの到達距離は無限だそうです。
「創造」の元へ向う・・・だが、「創造」に到達するわけではなく、代理人にキャッチされます。
その代理人からの祝福が色んなメッセージとなって感得される訳です。
光の幾何学は☆のコードによるものですから、12万Kmを超えて行ったことの証と言えるのです。。
祝福の対象は、良いこと・悪いこと の区別は一切なく、創造的な出来事そのものです。
倫理も道徳も全くかかわり無く・・・ただセンスだけが問題となるのです。
道徳の語源は「男と女の性器の結合」を意味します^@^
老子の直系の子孫が伝えているようです。
その村では「道徳」が盛んだそうですよ^*^
学校での道徳の概念は語源に不忠実と言えますね。
Posted by 笹舟 at 09:12│Comments(0)