2013年12月15日
シャスタも富士も紫の放射です

富士山ライブカメラより
良い光りを出してますね。
紫の彩りは女性性の時代の象徴カラーです。
時を同じくしてシャスタでも紫の光線が光のレンズから放射されてます。

シャスタ便りより
より象徴的なのは、ドアを開けたところに出たということで、オープン・ザ・ドア・・・時代のドアが開いたことを示唆されてるようです。
気が付かないなら、
そう思ったならそうなのだ・・・ということは今のモードでは妥当なのだと言われます。
人間と言うのは何か思っても、すぐに否定想念を湧かせてしまう生き物ですから、その前に認めてしまえばスッキリ~♪となります。
現実の扱いにも工夫が要る・・・難しい事じゃないですが、少しは思い切りを良くせねばならないでしょうね。
否定想念が湧いても別に悪いことではないんですが・・・今までの考え方の名残ということで流すようにすれば良いと思います。
肯定と否定・・・この言い方の順序は昔から決まっており、否定と肯定という言い方がされないのは、まずは肯定が来なければ存在というものが確定しなくなるからです。
今はこの3次元も幻なんだと曖昧化させる精神世界の人も居りますが、あまり得策とは言えないです。
確かに不確定化している側面はありますが、この現実を曖昧にしては楽しむことができなくなります。
現実は曖昧にさせるより確定した現実の断面化というクリスタルモードにするのが安心思考となります。
以下は「虹の民」からの引用ですが、そんな工夫にも近い現実的な選択といえるものです。
「モルモン教徒のコミュニティに生まれた私は、天にまします「父」なる神にいつも感謝し、毎晩祈りを捧げよと言われて育ちました。
モルモン教には「母」はいっさい登場しません。
私は自分がそうした信仰に属していることに悩まされました。
成長するにつれ、「母」や女性性の証を求めて、別の宗教にも目を向けるようになりました。
けれども、哀しいことに、どの宗教の経典にも教えにも、女性性が肯定的に描かれていることはほとんどありません。
なんという矛盾でしょうか。
「これは神の言葉だから従いなさい」とする宗教のもとで育ちながら、もう一方では、慈愛に満ちた母なる地球そのものに、日々、さまざまな教えを授かっていたのです。
私は板ばさみになっていました。
教会を信じ、神様と天国に迎え入れられる人間になろうと必死で教えを守ろうとしました。
けれども、自然が語りかけてくることも、紛れもない真理だと知っていたのです。
当然、非常に苦しい思いをすることになりました。
自分らしい生き方とは、人生の意味とは何なのか、どのような道を歩むべきなのか、何が心理なのか、判らなくなっていたのです。
ついに23才の時、父権的なモルモン教に我慢ができなくなった私は、母なる自然の懐に飛び込む道を選び、以来、引き返すことはありませんでした。」
Posted by 笹舟 at 11:25│Comments(0)